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※本コンテンツの一部はClaudeも参考にしています。
離婚後、とにかく新しい家を探すことに苦労をした。
そりゃそうだ。
仕事もしていない。
シングルマザーで一人息子。
貯金もない。
貸す側だって貸したくない。
意地を張っていた。軽井沢に帰って実家に住めばいいだけの話だ。けど、涼介を見返したい。そのくだらない思いが、私を東京に留まらせた。

インターネットを駆使して、ようやく辿り着いたのがシングルマザー専用のシェアハウスだった。
阿佐ヶ谷に来て、最初に思ったのは、商店街の長さだった。
アーケードが続いて、続いて、まだ続く。
八百屋も、洋服屋も、昔ながらの喫茶店も、全部一本の道に並んでいる。
軽井沢とは全然違う。
でも、なんだか温かい街だと思った。

シェアハウスは、商店街から少し入ったところにある少し古い一軒家だった。
内見の日、案内してくれたのは、同じく一人息子を育てるさくらさんだ。

年もひとつしか変わらずすぐに仲良くなった。
玄関を開けると、台所が目に飛び込んできた。大きなシンク、三口のコンロ、広いダイニングテーブル。大型の冷蔵庫が二台。
——実家の台所に、そっくりだ。
まるで誰かの声が聞こえてくるような台所だった。

食器棚には大人用と子ども用の食器が混ざっていて、それだけで、この家に家族の気配がした。
ここなら、
私の居場所が見つかるかもしれない。
そう思った瞬間、体から湧き上がる何かを感じた。
入居した日の夜、さくらさんが声をかけてくれた。
「今日、みんないるから『初めまして会』やろうよ! 夜ごはん一緒にどう?」
「え、嬉しい……みんなでご飯なんて、本当にありがとうございます」

声が少し震えた。
みんなでご飯。
その言葉だけで、目頭がじんわりと熱くなる。
さくらさんと買い物に出かけた。楽しかった。
誰かと何かをすることは久しぶりだった。
シェアハウスに帰ると、ホットプレートが二台用意されていて、たこ焼きと焼きそばのいい匂いが部屋中に広がっていた。
「もう遅いよ、待ちきれなくて作り始めちゃったよ」
缶ビール二本目の三上さんが、器用にたこ焼きをくるくると回している。

「わあ、すごい」
晴斗はホットプレートを見るのが初めてだった。
じゅうじゅうと焼ける音、ほんのり焦げた香ばしい匂いに興味津々だ。
実家でも、よくホットプレートでお好み焼きを作っていた。
母が焼き、兄と私はその様子をじっと見つめる。焼き上がると父がソースとマヨネーズをかけ、取り分けてくれた。
涼介と暮らしていた頃は、服に匂いがつくのを嫌がられて、ホットプレートを使う機会はなかった。
ずっと憧れだった、幸せな家族の象徴のようなもの。

「晴斗、たこ焼き食べるよー」
「まだたべないー」
「今食べないと冷めちゃうよ? ウインナー入ってるよ?」
「たべる!」
笑いが起きた。

子どもたちは和室で汗だくになって走り回って、大人たちはビールを片手にたこ焼きをつまむ。
賑やかで、くだらなくて、温かい夜だった。
家族や仲間と囲むからこそ、あたたかい。
ホットプレートで作る料理って、なんて魅力的なのだろう。
子どもたちを寝かせてから、リビングに戻った。

さくらさん、三上さん、佐々木さん、田中さん。五人でソファや床に思い思いに座って、お酒やお茶を手に持つ。
「朝起きたら、とりあえず洗濯機を回して、学校の手紙を読んで、部屋の掃除をして……」
「そうそう、日曜も診察してくれる歯医者で自分の治療して、買い出し行って、常備菜つくって……」
「そうそう、まじで休みなんて一瞬で終わるよね」
「役所関係の手続きは平日なわけでしょ? 休み取るしかないじゃん、給料減るし」

「わかるわかる」
「わかる」
うなずきながら、笑った。
くだらない話もたくさんした。
でも、おかしくて、止まらなかった。
子どもを起こさないように、声を殺して笑う。肩が揺れるくらい笑う。
気づいたら、私も話していた。
晴斗がなかなか寝ない子だった話。公園で知らない子のお母さんに謝り続けた話。
みんなが笑ってくれた。
「あるある」「わかる」「うちもそれやった」——その言葉が、こんなにも温かいとは思わなかった。

「瑠璃ちゃん、お酒飲める?」
名前で呼んでくれた。
「あまり強くはないですけど……」
「瑠璃ちゃん」——その響きが、ものすごく嬉しかった。
東京に来てからというもの、誰かに名前で呼ばれることがなかった。
「晴斗くんのママ」でしかなかった。それがいつのまにか当たり前になっていて、自分の名前を忘れかけていた気がした。
ここでは、私のことを「おまえ」なんて呼ぶ人もいない。
私自身の名前で呼ばれる。
ようやく、社会に戻ってこられた気がした。

引っ越してから数週間後、さくらさんと子どもたちを連れて近くの神社に行った。
神明宮と呼ばれ、地域の人に長く信仰されている場所だ。
夕方、誰もいない静かな境内で、さくらさんが「ここのレースのブレスレットが可愛いんだよ」と教えてくれた。
色の種類が豊富で、運気が上がるようにご祈願もされているらしい。
「浅葱色、ください」
直感で決めた。

この先、楽しいことだけじゃない。
きっと辛いことも、大変なこともある。だからこそ、このブレスレットをお守りにしよう。つらくなった時に見て、元気をもらえるように。
帰り道、さくらさんが言った。
「なんか、私まで嬉しいな」
「さくらさん、ありがとう。今日、大安なんだって」
「良いことがありそうだね」
空を見上げると、夕暮れの浅葱色が広がっていた。まるで、晴斗を産んだ日の空の色と同じだった。
私の、新しい人生が始まる。
晴斗の手を握ると、みるみるパワーが湧いてくる。
ぎゅっと抱きしめて「晴斗はママの宝物だよ」と言うと、晴斗はにっこり笑った。
この子の笑顔を守りたい。
「ママ、おなかすいた」
「何、食べようか?」
「ふわふわたまごのごはん」
「はいはい、好きだねぇ」
前を歩くさくらさんが、いきなり走り出した。
「よし、帰るぞ」
追いかけるように、私と晴斗も走った。

保育園の入所が決まり、仕事を始めることができた。
家の入居と同じくらい、仕事探しも苦労した。
日曜日と祝日に休みが取れて、子育てに理解がある仕事を探すのは難しかった。
やっと見つけたのが、やっと見つけたのが、新宿の商業施設に入っている洋服屋だった。週四日のパート。

接客は好きだった。
お客さんの顔を見て、話して、その人に似合うものを一緒に探す。
それだけのことが、楽しかった。
好きな服に触れられることも、また嬉しかった。

帰り道、新宿から阿佐ヶ谷に帰る電車から見る景色が好きだった。

沈む夕日で真っ赤に染まる空が温かくて、守られているみたいだった。
この時間が、私だけの時間だった。
晴斗のことを考えなくていい、誰かのことを考えなくていい、ただ揺られるだけでいい。それがこんなにも贅沢だとは思わなかった。
阿佐ヶ谷駅に着くと、人の賑わいさえも嬉しくて、この街で生きているんだと胸が高鳴った。
ここは、私の街になっていた。

第1の人生は、軽井沢で生まれ育った日々。第2の人生は、涼介と歩んだ結婚生活。
ならば今は、第2と第3の間——第2・5の人生とでも呼ぼう。
終わりじゃない。
まだ途中だ。
そう思ったら、少し笑えた。
《瑠璃の記憶》








