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2012年4月6日。
東京では桜が満開だという知らせが流れた日だった。

街はやわらかなピンクに包まれ、歩く人たちの表情もどこか軽い。
なのに私は、晴斗の小さな手を引いて、区役所の冷たい廊下に立っていた。
手に持った番号札には、「4番」とある。
縁起が悪い、と思いながら、呼ばれるのを待った。
窓口に呼ばれ、書類を出す。
職員は私の目は見ているが、表情までは見ない。
「印鑑をお願いします」「こちらにご記入ください」と、決まった順番でこなしていくだけ。
私の3年間も、書類の1枚として流れていく。

たった1枚の紙。
あっけなく残酷な、その紙。
3年前、婚姻届を出したのもこの窓口だった。
あの日も春だった。あの日の私は、これほど無表情ではなかった。
離婚届の名前欄に、ペンを走らせた時、改めて自分の名前が嫌になる。
永野 瑠璃。
ふと母の声を思い出した。

瑠璃も玻璃も照らせば光る、って言葉があってね
照らされることで、初めて光る石なの
だからあなたに瑠璃ってつけたのよ
照らされることで、光る。
今の私は、何に照らされているんだろう。
「はい、しっかり受理させていただきました」
それだけだった。
それだけで、終わった。

手続きが終わり、子育て支援課に向かいながら、私は誰とも目を合わせないようにしていた。
目というのは言葉と同じくらい、いやそれ以上に、意味を持つものを放ってくる。
今の私には、誰かの視線を受け止める余力がない。
簡易的に作られたキッズスペースで晴斗を遊ばせ、ひとり椅子に深く沈む。
たった5分、晴斗と離れただけなのに、心が少し落ち着いてきた。
――四六時中、子どもと一緒にいる生活。

こんなふうに一人でいる感覚、いつぶりだろう。
ふと、隣を歩いていた女性の姿が目に入った。
赤ちゃんを抱いた、幸せそうな顔。
左手の薬指には、きらきらと光る指輪。

胸の奥が、じわりと焼けた。
嫉妬だとわかっている。
でも今は、もう抑えきれない。
「お母さん大変ですよね、頑張って下さい」
さっき書類を渡してくれた職員が、走り寄ってきた。晴斗が落としたおもちゃを持って。

笑顔でおもちゃを差し出されて、思わずその顔をしっかり見てしまった。
なぜ、笑っているの。
私はこんなにも地の果てにいるのに。

「……どうも」
私はそう呟いて、おもちゃを受け取った。
涼介が買ってきた、オレンジ色の中央線のおもちゃ。
いっそのこと捨ててくれたらよかったのに、と思いながら、かばんに押し込んだ。
そのとき、晴斗が短い腕で私の背中を一周するようにぎゅっと抱きついた。
まるで、私の不安を感じ取ったかのように。
守っているつもりが、
守られているのは私のほうだった。
泣くな、泣くな、私。

頭の中に、ふと声が聞こえる。
「今、幸せ?」
晴斗を育てるのは、私だ。
逃げ出すわけにはいかない。

区役所を出て駐輪場へ向かう。
自転車のチャイルドシートに晴斗を乗せ、小さな頭にヘルメットを被せた。
家に向かう10分ほどの道を、私たちは一言も話さなかった。
子どもは親のことをよく見ている。
怖いくらいに。
空は雲ひとつない晴天だった。

こんなにきれいな空なのに、今日初めて空を見上げた。
上を向いて歩きたくない人だって、いるのだ。
空を見上げることすらできない人が、いるのだと、今日初めて知った。
家に帰ると、涼介はいなかった。

当たり前だ。
もう、いない。
段ボールに詰められた荷物を、涼介は全部持っていった。
服も、家具も、記憶も。
ただ、いつもつけている香水のにおいだけがうっすら残っていた。

あんなに好きだった香りなのに、今では吐き気がするほど嫌いになっていた。
晴斗に昼ごはんを食べさせ、膝の上に乗せてゆらゆら揺れているうちに、晴斗は眠った。
布団に下ろすと、体は温かくて、まるで湯たんぽみたいだ。
「ごめんね」
頭を撫でると、涙がこぼれた。
晴斗に、兄弟を作ってあげたかった。
こんな未来になるなんて、思っていなかった。

そして、天井を見上げた。
なんでこんなことになってしまったんだろう。
――どうやって、生きていこう。
まるで、水槽の水が抜けた金魚のようだった。
《瑠璃の景色》








